医療におけるジェンダー課題:健康格差とケアの偏りを探る
はじめに:健康とジェンダーの知られざる関係
私たちの多くは、医療は性別に関係なく公平に提供されるものだと考えているかもしれません。しかし、現実には、私たちの健康状態、病気へのかかりやすさ、診断や治療へのアクセス、そして医療従事者からのケアの質には、ジェンダーが深く関わっていることが指摘されています。性別による生物学的な違いだけでなく、社会的に作られたジェンダー役割や規範、さらには医療制度そのものに潜む偏りなど、様々な要因が私たちの健康と医療に影響を与えているのです。
本稿では、「ジェンダー・スコープ」の視点から、医療におけるジェンダー課題を深く掘り下げていきます。健康格差、診断・治療の偏り、ケア労働、そして性の多様性と医療といった多角的な側面から、この複雑な問題を分かりやすく解説し、皆さんが医療とジェンダーの関係について理解を深めるための一助となれば幸いです。
医療とジェンダーの歴史的背景と構造
医療は科学に基づいて発展してきましたが、その歴史を振り返ると、ジェンダー規範の影響を強く受けてきた側面があります。例えば、かつては女性の身体や精神に関する理解が男性医学の枠組みで捉えられたり、特定の症状がヒステリー(かつて女性特有の病気と見なされていた概念)として片付けられたりすることがありました。また、医学研究の分野においても、長らく男性を標準とした研究が進められ、女性の身体や疾患に関する知見が不足しているという課題も存在しました。
さらに、医療システムや医療提供者の意識にも、社会全体のジェンダー規範が反映されがちです。例えば、「男性は強く、痛みに耐えるべき」「女性は感情的になりやすい」といった無意識のステレオタイプが、患者の訴えの受け止め方や診断・治療方針に影響を与える可能性も否定できません。このような歴史的・構造的な背景が、現在の医療におけるジェンダー課題に繋がっています。
健康格差:性別が健康状態に与える影響
生物学的な性別(sex)の違いは、特定の病気のリスクや特徴に影響を与えます。しかし、それだけでなく、社会的なジェンダー(gender)は、健康行動、医療へのアクセス、さらにはストレスの度合いなどに影響を及ぼし、結果として健康格差を生み出しています。
- 健康行動の違い: 例えば、喫煙率や飲酒率、食生活、運動習慣などは、ジェンダー規範によって影響を受けることがあります。「男性は強くあるべき」という規範が無理な働き方を助長したり、「女性は美容や体型維持に関心を持つべき」という期待が特定のダイエット行動につながったりするなど、ジェンダーが健康に良い行動や悪い行動のパターンに影響を与えることがあります。
- 医療アクセスと受診行動: 医療へのアクセスについても、ジェンダーによる違いが見られます。経済的な状況、仕事や家庭での役割、自身の健康に対する意識などが複雑に絡み合い、特定のジェンダーの人々が必要な時に適切な医療を受けられていない可能性があります。例えば、非正規雇用や専業主婦など、社会的な立場によって健康診断の機会が少なかったり、受診を後回しにしたりする傾向が見られることがあります。また、特定のジェンダーに特有の健康課題(例:月経、妊娠・出産、更年期など)に対して、社会的な理解やサポート体制が十分でないことも、健康格差の一因となります。
- 精神的健康: ジェンダー規範は、メンタルヘルスにも大きな影響を与えます。「男性は弱みを見せるべきではない」という規範が精神的な不調を抱え込ませたり、「女性は感情を表に出しても良い」という許容が診断率に影響したりするなど、精神疾患の種類や受診行動にジェンダー差が見られます。
診断と治療における偏り
医療における診断や治療の場面でも、ジェンダーに関連する偏りが生じることがあります。これは、単に生物学的な違いだけでなく、医学研究におけるデータの偏り、医療従事者の無意識のバイアス、患者自身のジェンダー規範に基づく行動などが複合的に影響しています。
- 医学研究の偏り: 過去には、医学研究の被験者が男性に偏っていた時代があり、その結果、疾患の症状や治療効果に関するデータが男性の体に基づいて構築されてきました。そのため、女性に特有の症状が見落とされたり、男性向けに開発された薬剤の用量や効果が女性には適切でなかったりするケースが指摘されています。例えば、心疾患の症状は男女で異なる場合があることが知られていますが、典型的な男性の症状に基づいて診断が行われると、女性の心疾患が見逃されるリスクが高まります。
- 医療従事者のバイアス: 医療従事者も社会の一員であり、無意識のうちにジェンダー・ステレオタイプを持っています。例えば、女性の痛みの訴えが、男性の訴えに比べて「感情的」「大げさ」と受け止められ、適切に診断・治療されないといったマイクロアグレッション(microaggression: 日常的な小さな差別や偏見)が医療現場で起こりうる可能性が指摘されています。
- 患者側の要因: 患者自身も、自身のジェンダー役割や規範に縛られることがあります。例えば、「家族に迷惑をかけたくない」という思いから受診を我慢したり、自身の性別に関する健康上の悩みを医療従事者に伝えにくく感じたりすることがあります。
ケア労働とジェンダー
医療や介護の分野におけるケア労働は、ジェンダーと非常に密接に関わっています。歴史的にも文化的にも、ケア労働は女性の役割として位置づけられてきた傾向が強く、現在でも医療・介護従事者の多くを女性が占めています。
しかし、ケア労働は専門性が高く、身体的・精神的な負担が大きい仕事です。にもかかわらず、その労働に見合うだけの社会的評価や経済的な報酬が十分でないという課題があります。これは、ケア労働が「女性の仕事」として価値を低く見られる傾向があることと無関係ではありません。ケア労働のジェンダー化は、働く人々のジェンダー課題であると同時に、必要なケアサービスが社会全体で十分に提供されないという社会全体の課題でもあります。
性の多様性と医療
近年、性の多様性(ジェンダーアイデンティティや性的指向の多様性)に対する理解が進む中で、性的マイノリティの人々が医療現場で直面する課題にも光が当たっています。
- 医療へのアクセス障壁: 性的マイノリティの人々は、医療機関で差別的な対応を受けたり、自身のセクシュアリティやジェンダーアイデンティティについて理解されず、適切な医療を受けられないのではないかという不安から、医療機関への受診をためらうことがあります。問診票の性別欄が男女の二択しかない、医療従事者からの不用意な発言、パートナーシップが法的に認められていないことによる医療現場での課題など、様々な障壁が存在します。
- 特定の医療ニーズ: トランスジェンダーの人々が必要とするホルモン治療や性別適合手術といった医療は、専門的な知識が必要であり、提供できる医療機関が限られているという課題があります。また、自身のジェンダーアイデンティティと異なる身体的性別に起因する健康上の悩み(例:子宮のある男性の婦人科受診)など、特有の医療ニーズに対する医療従事者の理解や対応も十分に求められています。
性的マイノリティの人々が安心して、自身のニーズに合った医療を受けられるようにするためには、医療従事者の研修、医療制度の整備、そして社会全体の意識変革が必要です。
今後の展望と課題
医療におけるジェンダー課題の解決に向けては、様々な取り組みが進められています。医学研究における性差医療の推進、医療従事者へのジェンダー平等に関する研修、医療機関における多様性への配慮、そして患者自身のヘルスリテラシー(health literacy: 健康や医療に関する情報を入手し、理解し、活用する能力)向上などが挙げられます。
しかし、これらの課題は一朝一夕に解決できるものではありません。長年にわたる社会構造や文化的な規範、無意識のバイアスなどが複雑に絡み合っているためです。今後も、以下の点が重要な課題となるでしょう。
- データ収集と研究の推進: 性別だけでなく、多様なジェンダー、性的指向、社会経済的背景などを考慮した詳細なデータ収集と、それに基づく医学研究が必要です。
- 医療従事者の継続的な教育: ジェンダーやセクシュアリティに関する最新の知見、多様性への配慮の重要性について、医療従事者が継続的に学ぶ機会を確保する必要があります。
- 制度改革: 医療制度、保険制度、そして関連法規において、ジェンダー平等の視点を組み込むことが求められます。
- 社会全体の意識変革: 医療現場だけでなく、社会全体でジェンダー規範やステレオタイプを見直し、多様な性のあり方や健康に対する理解を深めることが不可欠です。
学びを深めるために
医療におけるジェンダー課題は、私たちの健康、社会の公平性、そして人権に関わる重要なテーマです。本稿でご紹介した内容は、そのほんの一部に過ぎません。
さらに学びを深めるためには、医学、社会学、心理学、法学、公衆衛生学など、様々な分野の知見に触れることが有効です。例えば、性差医療に関する研究論文、ジェンダー論に関する書籍、医療倫理に関する議論、性的マイノリティの健康に関する報告書などを参照することで、多角的な視点からこの問題を理解することができるでしょう。また、医療機関や患者団体、NPOなどが発信する情報も、現場の実情を知る上で貴重な情報源となります。
私たち一人ひとりが、自身の健康や医療に対するジェンダーの影響について意識を持ち、医療現場における課題に関心を持つことが、より公平で誰もが安心して利用できる医療システムの実現につながる第一歩となるはずです。